迷い続けたから、手渡せるもの

解剖学ボイストレーナー・ミリアンさん

「ネギができてきたな、とか、小松菜が立派だな、とか。見るのが好きなんです」
ミリアンさんが府中に越してきたのは、約2年前。駅までの道に畑がある暮らしは、ミリアンさんにとって初めてだった。
程よく便利で、人が多すぎない。昔ながらの個人店も残っている。小さな和菓子屋との出会いをきっかけに、それまで興味のなかった和菓子も大好きになった。

そんな府中で暮らすミリアンさんは、解剖学ボイストレーナーとして、声に悩む人を支えている。

歌のレッスンと聞いて思い浮かべるのは、発声練習や呼吸法、音程を整えるトレーニングかもしれない。
けれど、ミリアンさんが向き合うのは、声だけではない。

喉の構造や舌の位置、姿勢、呼吸、筋肉の使い方。声を生み出す体の仕組みをもとに、一人ひとりが抱える悩みの原因を探っていく。
舞台俳優やシンガー、ナレーターなどのプロから、趣味で歌う人、声の出しにくさに悩む人まで、訪れる人はさまざまだ。現在は、府中市内でもレッスンを行っている。

なぜ、ミリアンさんは感覚だけに頼らない指導へとたどり着いたのか。
その背景には、歌が好きだからこそ迷い続けた長い時間があった。

姉のあとを追って始めたミュージカル

幼い頃のミリアンさんは、おとなしく、3歳上の姉のあとをついて回る子どもだった。
姉のお下がりを着て、姉と同じ習い事をしていた。小学2年生で始めた子どもミュージカルも、友人や姉の影響から、遊びの延長のような感覚で足を踏み入れた。

中学校では、経験があったことからミュージカル部へ入部した。ところが、友人と初めてカラオケに行ったとき、自分が思うように歌えないことに気づいた。
「私って、こんなに歌えないんだ」
咳をしてごまかすほど恥ずかしく、それ以来、歌へのコンプレックスを抱えるようになった。

それでも、ミュージカルから離れることはなかった。得意だから続けたのではない。本人も気づかないほど、夢中になっていたのだ。

3分の歌に、半年をかけて

高校2年生の頃、ミリアンさんはミュージカル『CATS』のグリザベラ役のオーディションを受けることになった。
グリザベラが歌うのが、劇中歌「メモリー」だ。

オーディションに備えて聴いたのが、ミュージカル女優エレイン・ペイジが歌う「メモリー」だった。
英語の歌詞を字幕で追ううちに、気づけば涙がこぼれていた。

「『上手い』という言葉だけでは足りないと思いました。歌う人によって、同じ曲がここまで違って聞こえるんだって」

それまでにも『CATS』を観たことはあった。けれど、同じ作品、同じ曲でも、歌い手によって届き方はまるで違う。その歌声に心を揺さぶられ、ミリアンさんは「こんなふうに歌えるようになりたい」と強く思った。

それから、毎日のように「メモリー」を聴き込み、歌い方を研究しながら練習を重ねた。
そして迎えたオーディション。ミリアンさんは合格をつかみ、グリザベラ役に選ばれた。
あのとき衝撃を受けた「メモリー」を、今度は自分自身が歌うことになった。

ソロで歌うのは、わずか数分。その短い曲を深く理解し、グリザベラの思いを自分の表現として届けるために、ミリアンさんは半年もの時間をかけ、役と曲を丁寧に掘り下げていった。
英語と日本語の歌詞を並べ、なぜこの言葉に訳されたのかを考えた。「この役にとっての幸せとは何だろう」と、歌詞から浮かんだ景色を絵に描くこともあった。

ただ上手に歌うだけではなく、一人の人物が何を感じ、何を伝えようとしているのかを考え続ける。
一つのものに、これほど長く向き合い、深く突き詰めたのは初めてだった。

姉がミュージカルをやめても、ミリアンさんは続けた。いつの間にか、姉のあとを追って始めたものが、自分自身の道になっていた。

答えを探し続けた日々

「メモリー」と出会った頃から、ミリアンさんは本気で歌を学ぼうと、声楽のレッスンに通い始めた。
しかし、そこで告げられたのは、思い描いていた未来とはかけ離れた言葉だった。

「あなたはミュージカルに向いていない。オペレッタ(クラシック寄りの歌劇)のほうがいいんじゃない」

自分が出したい声と、生まれ持った声は違うのかもしれない。
努力しても、越えられないものがあるのかもしれない。
レッスンでは「頭のてっぺんから声を出して」といった感覚的な指導が多かった。その場で偶然うまく声が出ても、家に帰ると再現できない。どう出したのか、自分でも分からなかった。

進学先には、音楽大学ではなく、建築を学ぶ4年制大学を選んだ。
大学在学中にはレベルの高いミュージカル団体にも参加したが、同世代には、幼い頃から活動を続け、自分よりもずっと上手に、しかも難なく歌っているように見える人が大勢いた。

練習しても届かない。
先生を変えてみても、説明の多くは感覚に頼るものだった。

「結局、才能なんじゃないか」
好きだからこそ諦めきれず、けれど、どこへ進めばいいのかも分からない。ミリアンさんは長い間、歌の迷子になっていた。

声の仕組みと出会う

大学卒業後は、製造業の会社で営業事務として働きながら、舞台にも立ち続けた。
音楽は趣味で続けるのが一番幸せなのだと、自分に言い聞かせていた。それでも25歳を前に、「このまま30歳になっても、ここにいるのだろうか」という思いが膨らんでいく。
舞台でプロのダンサーやシンガーと共演する機会が増えていったことも、ミリアンさんの背中を押した。

「やっぱり、私も音楽を仕事にしたい」
そう覚悟を決め、会社を辞めた。大手ボーカルスクールで、ボイストレーナーとして働き始めた。

生徒の指導を続けるなかで、ミリアンさんは、長年抱えてきた自分自身の課題と改めて向き合うことになった。
ある生徒から、「ミックスボイスを教えてほしい」と頼まれたのだ。地声と裏声を滑らかにつなぐその発声は、実はミリアンさん自身も習得できずにいた。
それを、どう教えればいいのか。

教えるためには、まず自ら身につけなければならない。ミリアンさんは、喉の構造や発声のメカニズムを徹底的に調べた。
学んだことを一つずつ自分の体で試し、その変化を確かめていくと、何年もできなかった発声が、わずか1週間ほどでできるようになったのだ。

「私に足りなかったのは、こういう勉強だったんだと思いました」
長い間、「才能がないからできない」と思っていたことが、体の仕組みを知ることで変わった。その実感が、ミリアンさんの指導の軸を「感覚」から「仕組み」へと変えていった。

その後、科学的な発声法や、理学療法士による体の使い方を学び、解剖学をベースにした現在の指導へとつながっていった。

声の土台から整える

ミリアンさんのレッスンでは、喉の構造を図で確認しながら、舌の位置や力の入り方、姿勢、呼吸を細かく確かめていく。
たとえば、舌に力が入ると、その緊張は喉にも伝わる。舌の感覚をつかみ、不要な力を抜くだけで、声が出しやすくなる人もいる。

感覚を否定するわけではない。
ただ、感覚だけに頼っていては、「なぜその声が出たのか」が分からず、自宅で再現することも難しい。
体の仕組みから声の出方を理解できれば、先生に直してもらうのを待つのではなく、その日の状態に合わせて、自分でトレーニングを組み立てられるようになる。

「私が得意なのは、すでに歌が上手な人を、さらに引き上げることよりも、マイナスをゼロに戻すことです」

現在は、プロを目指す人だけでなく、声が震える、かすれる、意図せず裏返るといった発声の悩みを抱える人も、ミリアンさんのもとを訪れる。
ある生徒は、現在70代。通い始めた頃には細い裏声しか出なかったが、トレーニングを重ね、以前より大きな声が出るようになり、姿勢も良くなったという。

声は、生まれ持った才能だけで決まるものではない。
体の使い方を知り、必要な筋肉を少しずつ育てることで、変えられることがある。
それは、かつて「自分には向いていないのだ」と悩み、葛藤してきたミリアンさん自身が、何より実感してきたことだ。

夢を追う若者の道しるべに

ミリアンさんが今、特に力になりたいと考えているのが、プロを目指す若い世代だ。
華やかに見える世界の内側で、若者たちは常に比べられ、評価されている。同世代が先に仕事を得るたびに焦り、「この道でだめなら、自分にはほかに進める場所がない」と、追い詰められてしまうこともある。

ミリアンさん自身も、進路に迷い、家庭との距離に悩みながら、相談できる大人がいないと感じていた時期があった。
だから今、生徒の状態によっては、発声練習を急がず、進路や心の悩みについてじっくり話す時間を大切にしている。

「一度諦めたり、立て直したり、また迷ったり。私もずっとふらふらしてきたので、その気持ちはよく分かります。そういう子たちを放っておけないんです」
すでに若い世代が参加しやすい料金のグループレッスンも始めている。

ミリアンさんが目指しているのは、技術を教えることだけではない。若い人たちが自分の状態を知り、迷ったときにも自分なりの道を選んでいけるよう、そばで支えることだ。
かつて自分が欲しかった道しるべを、今度は次の世代へ届けようとしている。

府中で始まる、次の一歩

暮らすうちに好きになった府中は、ミリアンさんにとって活動を広げていく街にもなりつつある。
義父が町内会長を務めていることから、家族とともに地域のお祭りを手伝うこともある。
地域に根づいて活動する人たちと出会うなかで、ミリアンさんは、自分の専門性を府中でどのように生かせるかを考えるようになった。

市内でもレッスンを行うようになり、人とのつながりも広がっている。
今後は、若い表現者が技術だけでなく、進路や心の悩みも話せる場をつくること、そして、いつか市民ミュージカルに関わることも思い描いている。
ミリアンさんの府中での地域活動は、まだ始まったばかりだ。

声の悩みを抱える人。
夢と現実の間で立ち止まっている若者。
年齢とともに、声の衰えを感じている人。

この街で、まだ出会っていない誰かとつながったとき、ミリアンさんの専門性は、新しい役割を持ち始めるのだろう。
かつて進む道を見失った一人の表現者が、自ら見つけた道を、次の誰かへ手渡していく。
その歩みは、府中で少しずつ形になっていく。

この街で、ミリアンさんがどんな人と出会い、どんな場を育てていくのか。
これからも見つめていきたい。

プロフィール
ミリアン

解剖学ボイストレーナー。ボイストレーニング歴約20年、ボイストレーナー歴約15年。喉の構造や発声のメカニズム、姿勢、呼吸など、解剖学をベースに、一人ひとりの声の悩みに向き合う。舞台俳優、シンガー、ナレーターなどのプロから、趣味で歌を楽しむ人、発声に悩みを抱える人まで幅広く指導。現在は府中市内でもレッスンを行うほか、プロを目指す人の育成にも力を入れ、阿佐ヶ谷でグループレッスンを開催している。

ライター

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編集部より

「府中が好き」は、ハッピーカーズ府中店 が運営する地域メディアです。
私たちは地域企業として、事業活動だけでなく、 府中がより良い街であり続けるための取り組みに関わり続けたいと考えています。
本記事は、その活動の一環として、府中で活躍する人や想い、取り組みを記録し、発信しています。